氷川神社 御由緒

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  • 写真の撮影及び文字起しをした日:2024年(令和6年)8月

文字起こし内容

氷川神社 御由緒

さいたま市緑区東浦和五ー二〇ー二

□ 御縁起(歴史)

『風土記稿』大間木村の頃に、当社は「氷川社 当村及び大間木新田・大牧(おおまき)・附島(つきしま)等四か村の鎮守なり、附島村民の持、末社 第六天社、牛頭天王(ごずてんのう)、疱瘡(ほうそう)神、天神社、八幡社、荒神社、稲荷社、神明社、別当三光院本山派修験、中尾村玉林院配下なり、本尊不動を安ず、長一尺五寸許(ばかり)、智證大師の作と云、什物(じゅうもつ)、笈一(おいひとつ)亀井六郎奥州下向の時背負し物なりと云(以下略)」と記されている。

往時別当であった三光院の末裔(まつえい)である仲田家には『風土記稿』にも挿絵の載る室町期の優れた漆工芸品である椿紋鎌倉彫笈(県指定文化財)が残されている。笈とは、行脚僧(あんぎゃそう)・修験者(しゅげんじゃ)などが仏具・食物・衣類などを入れて背負う箱のことで、『風土記稿』では源義経の家来である亀井六郎重清にちなむものであるとしている。この真偽は定かではないが、亀井六郎の屋敷跡とされる所が三光院の本寺に当たる玉林院が所在した中尾村にあったと伝えられている。この笈を背負った三光院の先祖がこの地に土着して当社の祭祀を司るようになったものと思われ、当社の創建も室町期までさかのぼることが推測される。

市指定文化財になっている一間流造りの当社本殿は『明細帳』によると、寛文七年(一六六七)三月に武蔵国一宮(いちのみや)氷川神社が再建された際、旧本殿を買い受けたものである。

なお、いつのころからか稲荷社二社と石神井社を当社に合祀したという。

□ 御祭神と御神徳
・素盞嗚(すさのお)尊・・・武運長久、厄除け、商売繁盛

□ 御祭日
・初拝み(一月一日) ・例大祭(七月二十三日)

このコンテンツについて

㈱マスターズホームが、さいたま市緑区にお住いの小中学生に保護者様承諾のもと、地元の歴史や文化を学ぶことを念頭に、写真の撮影や文字起しをして頂き作成されたコンテンツです。今後は川口市内(東浦和駅近辺)も含め、ご協力頂ける方を募集する予定です。(図書カードNEXTを進呈)

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