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- 写真の撮影及び文字起しをした日:2024年(令和6年)9月
文字起こし内容
一、指定年月日 昭和五十七年七月三日
二、指定基準 特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準
史跡六(その他産業交通土木に関わる遺跡)による。
三、概要
見沼通船堀は、江戸時代中頃に築造された閘門式(こうもんしき)運河の遺構です。享保十三年(一七二八)、徳川幕府は井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)に命じ灌漑用水路である見沼代用水路を開削しました。その三年後の享保十六年、物資輸送を目的に、為永によって東縁用水、西縁用水とその中央を流れる芝川を結んでつくられたのが見沼通船堀です。
見沼通船堀は、東西二つに分かれており、東縁側が約三九〇メートル、西縁側が約六五〇メートルあります。東西の各用水と芝川の水位差が三メートルもあったため、閘門を用いることによって水位差を調節し、船を通しました。
ここ東縁通船堀は、ほぼ直線となっていて当時の様子がよくわかります。通船の時は、堀の土手から船につけた綱を引いて通しました。この時船頭はもちろんのこと、近所の人々の大きな助けが必要でした。
平成二十四年三月
さいたま市教育委員会
注意 この史跡は文化財保護法によって指定されています。みだりに現状を変更したり、滅失し、き損、衰亡等保存に影響を及ぼす行為は禁止されています。
※文化財のお問い合わせは
教育委員会生涯学習部 文化財保獲課
※看板についてのお問い合わせは
都市局都市計画部みどり推進課
TEL:048-829-1111(代表)
見沼たんぼのホームページ
http://www.minumatanbo-saitama.jp/
さいたま市
文化財に関する問合せ先…さいたま市教育委員会文化財保護課
2万年前の氷期最盛期の海面は現在よりも120m低かったと言われています。その後の急激な海面上昇(縄文海進)により、海面は現在よりも3~5m高くなりました。その頃、現在の見沼たんぼの場所は東京湾の海水が入り込む入江で、この時に堆積した土砂(沖積層)により見沼たんぼの低地は形成されました。
沼・湿地の時代 弥生時代~1628年
約6,000年前を境に入江が後退し、荒川の下流が土砂で次第に高くなり東京湾と分離した沼や湿地となりました。
溜井の時代 1629年~1727年
徳川家光は、幕府の財政的基盤としての水田確保のため、伊奈半十郎忠治に見沼を灌漑用水池とするように命じ、八丁堤によりせき止め、平均水深約1mの溜井が完成しました。
田んぼの時代 1728年~現在
8代将軍吉宗は、幕府の財政改革(享保の改革)のため、井沢弥惣兵衛為永に見沼溜井の新田開発を命じました。これにより、見沼は田んぼとして生まれ変わりました。
見沼通船堀
指定種別・名称 史跡・見沼通船堀
指定年月日 昭和57年7月3日
所在地 埼玉県浦和市大字大間木 下山口新田
見沼通船堀は、享保16年(1731)に幕府勘定吟味役井沢弥惣兵衛為永によってつくられた我が国最古とされる閘門式運河です。通船掘は代用水路縁辺の村々から江戸へ、主に年貢米を輸送することを目的として、東西の代用水路と芝川を結ぶかたちで八丁堤の北側につくられたものです。東縁側が約390m、西縁側が約654mありますが、代用水路と芝川との間に水位差が約3mもあったため、それぞれ関を設け、水位を調節して船を上下させました。関と関との間が閘室となり、これが閘門式運河と呼ばれる理由です。この閘門をもつことが見沼通船堀の大きな特徴となっており、技術的にも高く評価されています。
通船堀を通って江戸に運ばれたものは、年貢米の他野菜、薪炭、酒、柿渋など代用水縁辺の村々の生産物で、江戸からは肥料、塩、魚類、醤油、荒物などが運ばれました。
通船を行うのは、田に水を使わない時期で、初め秋の彼岸から春の彼岸まででしたが、後に冬場の2ヶ月程と短くなりました。通船は明治時代にも盛んに行われましたが、陸上交通の発違などによってすたれ、大正時代の終わり頃には行われなくなり、昭和6年の通船許可の期限切れとともに幕をおろしました。
見沼通船堀は、江戸時代中期の土木技術や流通経済を知る上で貴重な史跡として国の史跡に指定されています。また通船差配(船割役)の鈴木家住宅もあわせて指定され、保存されています。
文化庁
埼玉県教育委員会
さいたま市教育委員会
見沼干拓と見沼代用水路
見沼は埼玉県東南部に広がる広大な沼沢地で、武蔵国一宮である氷川女体神社(浦和市宮本所在)とも関わりが深く、その中で御船祭なども行われていました。江戸時代初めの寛永6年(1629)関東郡代伊奈半十郎忠治によって八丁堤が築かれ見沼溜井がつくられました。この溜井の完成によって、溜井の南側の新田開発は進みましたが、見沼沿岸の地域では水没田が生じたこと、上流がないために恒常的な水不足とたび重なる溢水などいろいろな問題がでてきました。
江戸時代の中頃になると徳川吉宗は幕府財政建て直しのため各地で新田開発を押し進め、見沼も開発されることとなりました。この工事は幕府勘定方(後に勘定吟味役)井沢弥惣兵衛為永により行われ、まず八丁堤を切り、中央にある芝川の旧河道を使って排水を進め、新田造成を行いました。新たな用水として、利根川から水をひくこととし、延べ60Kmにわたる用水路を完成させました。これは在来の見沼に代わる用水という意味で、見沼代用水と呼ばれています。こうした一連の工事は、翌享保13年(1728)の春に完成し、その年から新田に植え付けが行われました。なお新田造成工事は村請けや町人請けという方法で進められ、代用水縁辺の各村に新田が割り当てられました。
見沼通船堀と見沼代用水路(東線・西縁)位置図
見沼通船と通船堀
享保16年(1731)幕府から通船の許可が出されると新田開発に功績のあった高田・鈴木両家が通船堀差配役に任じられ、通船権を与えられました。江戸に通船屋敷を設け、差配を行い、出張所にあたる通船会社が川口宿や八丁堤など6ヵ所におかれ、また荷物の積みおろし場が川口宿から東西両代用水路沿いに59ヵ所設けられました。
通船の経営は、初め江戸の通船屋敷で行われ ていましたが、文政年間(1818~1826)になると八丁の会所に自ら出向き事務をとるようになったといわれています。現在でも鈴木家には江戸時代後期の建物群が残っています。
明治時代になっても、明治7年に設立された見沼通船会社によって経営が行われ、八丁河岸に本社事務所がおかれました。明治26年には株式会社となりましたが、陸上交通の発達などによって徐々に衰退し、やがて昭和6年の通船期限満期に伴い、その幕をとじました。
大正時代の八丁河岸
このコンテンツについて
㈱マスターズホームが、さいたま市緑区にお住いの小中学生に保護者様承諾のもと、地元の歴史や文化を学ぶことを念頭に、写真の撮影や文字起しをして頂き作成されたコンテンツです。今後は川口市内(東浦和駅近辺)も含め、ご協力頂ける方を募集する予定です。(図書カードNEXTを進呈)