- GoogleMapで、掲示物・案内板・立札・石碑などのおおよその位置を示しています。
- 写真の撮影及び文字起しをした日:2024年(令和6年)8月
文字起こし内容
さいたま市緑区宮本(みやもと)二-一七-一
□ 御縁起(歴史)
当社は、旧見沼(みぬま)を一望できる台地の突端「三室」に鎮座する。見沼は神沼として古代から存在した沼で、享保十二年(一七二七)の新田開発までは、一二平方キロメートルという広大なものであった。この沼は御手洗(みたらし)として当社と一体であり、ここに坐(ま)す神は女體神、すなわち女神であった。
創建の由緒は明和四年(一七六七)に神主武笠大学の記した『武州一宮(いちのみや)女躰宮御由緒書』(大熊家文書)によると、「崇神帝之御勧請」「出雲国大社同躰」とある。また『神社明細帳』控には、見沼近くにある当社と現在のさいたま市大宮区高鼻鎮座の氷川神社、同市中川鎮座の中山神社(氷王子社)の三社を合わせ氷川神社として奉斎したと載せる。
中世、旧三室郷の総鎮守として武家の崇敬が厚く、社蔵の三鱗文兵庫鎖太刀(みつうろこもんひょうごくさりたち)は北条泰時(ほうじょうやすとき)の奉納と伝える。
祭祀は御船(みふね)祭と称し、隔年の九月八日に見沼に坐す女神に対して行われた。しかし、古来より続けられてきた御船祭は、享保十二年(一七二七)見沼新田の開発が始められたため、沼中の祭祀が不可能になった。このためやむをえず磐船(いわふね)祭と称し、沼跡の新田の中に小山を築き、舟形の高壇を設けて周囲に池を掘り、ここを見沼に見立てて祭祀を行うこととし、同十四年(一七二九)九月から斎行された。下山口新田には、祭場遺跡として「四本竹(しほんだけ)」の地名が残るが、近年の発掘調査では多数の注連竹が発見され、これを裏付けた。
社叢は、埼玉では珍しい暖地性常緑広葉樹叢であることから、昭和五十六年に埼玉県より「ふるさとの森」の第一号として指定された。
□ 御祭神
・奇稲田姫命(くしいなだひめ)
・大己貴命(おおなむち)
・三穂津姫命(みほつひめ)
□ 御祭日
・歳旦祭(一月一日)
・祈年祭(二月十八日)きねん
・祇園磐船龍神祭(五月四日)
・名越大祓(七月三十一日)なごしおおはらえ
・お日待(十月七日)おひまち
・例大祭(十月八日)
・新穀感謝祭(十一月二十三日)
氷川女體神社社殿(ひかわにょたいじんじゃしゃでん)一棟
付 寛文(かんぶん)七年銘棟札(むなふだ)一枚
平成十九年三月十六日指定
この社殿は、十七世紀の造営であり、本殿(ほんでん)と拝殿(はいでん)を幣殿(へいでん)でつなぐ複合社殿です。
一番奥にある本殿は、朱塗りの三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の建物です。三間社とは、正面の柱と柱の空間が三つあるので「三間社」と表現します。屋根は切妻造(きりづまづくり)の前方が長く延び、なだらかな曲線を描く「流造」となっています。本殿と拝殿をつなぐ幣殿は、間口を本殿に合わせ、屋根は、切妻造で二方向に葺(ふき)下しています。拝殿は、入母屋造(いりもやづくり)の建物で、屋根の正面には、三角形の「千鳥破風(ちどりはふ)」と、軒から起こり曲線を持つ 「軒唐破風(のきからはふ)」が施されています。現在、屋根は銅板葺(ぶき)ですが、平成二十三年の社殿保存修理時に、古いこけら葺(ぶき)が残存していることが確認されました。
寛文七年(一六六七)銘の棟札には、四代将軍徳川家綱が、忍藩主阿部忠秋を奉行として「武蔵国一宮簸河女躰大明神社」本殿の工事を行った記載があり、江戸幕府の公式歴史書『徳川実紀(じっき)』には、その修理費用が三百両であったとも記録されています。
この本殿は本県における代表的な神社本殿建築様式を伝える建造物であり、幣殿・拝殿を含め社殿として一括して埼玉県の文化財に指定されています。
宗教法人 氷川女體神社
さいたま市教育委員会
氷川女體神社社殿(ひかわにょたいじんじゃしゃでん)一棟
付 寛文七年銘棟札 一枚
平成一九年三月一六日指定
氷川女體神社は、武蔵国一宮と称され、また、古来より御船祭を行う神社として知られています。中世以降は、武家の崇敬が厚く、当社所蔵の三鱗文兵庫鎖太刀(みつうろこもんひょうごぐさりたち)(県指定有形文化財)は鎌倉幕府執権北条泰時の奉納と伝えられ、戦国時代には岩付(いわつき)太田氏や小田原北条氏の庇護(ひご)を受けていました。江戸時代になると、徳川幕府から社領として五○石の地を寄進されました。また、当社に残る寛文七年(一六六七)銘の棟札(むなふだ)等により、本殿は江戸幕府四代将軍徳川家綱が再興したものであることが明らかとなっています。
社殿は本殿と拝殿(はいでん)を幣殿(へいでん)でつなぐ複合社殿で、権現造(ごんげんづくり)の形式となっています。本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で、正面三間(三・五六メートル)、側面二間(二・一一メートル)、さらに向拝(ごはい)がついています。幣殿は両下造(りょうさげづくり)で、正面一間(三・五六メートル)、側面二間(三・六三メートル)です。拝殿は入母屋造(いりもやづくり)で、正面五間(九・四六メートル)、側面二間(四・五七メートル)です。さらに向拝がつき、その向拝には千鳥波風(ちどりはふ)及び唐破風(からはふ)がついています。
平成二三年・二四年に社殿修理が行われ、屋根が柿葺(こけらぶ)きの時期があったことがわかりました。
この社殿は、埼玉県における代表的な神社本殿建築様式を伝える建造物であるとして、平成一九年に埼玉県の有形文化財に指定されました。
問い合わせ先
さいたま市 TEL048-829-1111(代)
文化財保護課
みどり推進課
見沼田んぼのホームページ
http://www.minumatanbo-saitama.jp/
氷川女體神社社叢(ひかわにょたいじんじゃしゃそう)
昭和四〇年七月一日指定
氷川女體神社は武蔵国有数の古社で、大宮氷川神社とともに、武蔵一宮(いちのみや)といわれています。
かつての見沼に突き出た小舌状台地(ぜつじょうだいち)上に位置しており、見沼とは非常に関係の深い神社でした。
社叢は、クスノキ、タブノキ、シラカシ、モチノキ、サカキ、ヒサカキ、ネズミモチ、シロダモ、チョウジカズラ、ビナンカズラなどの自然林の常緑広葉樹を中心に構成されています。下草にもキチジョウソウなどの暖地性のものがみられ、境内は暖地性植物の群生地といえます。また、スギも樹齢三百年をこえる大木が見られます。
なお、この社叢はさいたま市の「保存緑地」にも指定されています。
さいたま山教育委員会
氷川女體神社
見沼田んぼの歴史
①海の入り江の時代【縄文時代】
2万年前の氷期最盛期の海面は現在よりも120m低かったと言われています。その後の急激な海面上昇(縄文海進)により、海面は現在よりも3~5m高くなりました。その頃、現在の見沼たんぼの場所は東京湾の海水が入り込む入江で、この時に堆積した土砂(沖積層)により見沼たんぼの低地は形成されました。
②沼・湿地の時代【弥生時代~1628年】
約6,000年前を境に入江が後退し、荒川の下流が土砂で次第に高くなり東京湾と分離した沼や湿地となりました。
③溜井の時代【1629年~1727年】
徳川家光は、幕府の財政的基盤としての水田確保のため、伊奈半十郎忠治に見沼を灌漑用水池とするように命じ、八丁堤によりせき止め、平均水深約1mの溜井が完成しました。
④たんぼの時代【1728年~現在】
8代将軍吉宗は、幕府の財政改革(享保の改革)のため、井沢弥惣兵衛為永に見沼溜井の新田開発を命じました。これにより、見沼は田んぼとして生まれ変わりました。
問い合わせ先
さいたま市
文化財保護課
みどり推進課
TEL:048-829-1111(代表)
見沼たんぼのホームページ
http://www.minumatanbo-saitama.jp/
このコンテンツについて
㈱マスターズホームが、さいたま市緑区にお住いの小中学生に保護者様承諾のもと、地元の歴史や文化を学ぶことを念頭に、写真の撮影や文字起しをして頂き作成されたコンテンツです。今後は川口市内(東浦和駅近辺)も含め、ご協力頂ける方を募集する予定です。(図書カードNEXTを進呈)