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- 写真の撮影及び文字起しをした日:2024年(令和6年)8月
文字起こし内容
氷川女體神社磐船祭祭祀遺跡(ひかわにょたいじんじゃいわふねまつりさいしいせき)
昭和五四年三月二九日指定
氷川女體神社では、かつて御船祭と呼ばれる祭礼がおこなわれていました。これは、毎年あるいは隔年の九月八日に御座船に乗せられた神輿が見沼を渡って下山口新田の御旅所に渡御するもので、見沼の中に設けられた祭礼場跡では、何度も繰り返し竹を立てた跡や祭礼に伴うとみられる銭などがおびただしく出土しました(四本竹遺跡)。この御船祭は、見沼と深い関わりをもった氷川女體神社の根本祭礼でした。
しかし、享保一二年(一七二七)に見沼の干拓が行われると、御船祭は行えなくなりました。そこで、新たに祭礼場を造成して、御船祭の代わりの祭礼が行われることとなりました。これが磐船祭です。
新たな祭礼場は、氷川女體神社境内の前にある見沼の干拓地に柄鏡形に池を掘り、その中に土を盛って造られました。高台にある境内から、参詣路の石段を降り、見沼代用水を渡ったところから、陸橋(御幸道)が設けられ、祭礼場へと通じていました。
祭礼場は直径三〇メートルの円形の島で、その中央には四本の竹で囲んだ斎域が設けられていました。ここに神輿が渡御し、御船祭にかわる祭礼としての磐船祭が行われていました。
磐船祭は享保一四年九月八日に初めて行われ、幕末から明治の初期頃まで行われました。その後、磐船祭は途絶えましたが、祭礼場の跡はそのままに残されてきました。
見沼と関係の深い関わりを持った氷川女體神社の祭礼を物語る遺跡として、極めて重要なものです。なお、昭和五七年度に氷川女體神社と旧浦和市教育委員会によって、復元整備事業が行われました。
問い合わせ先
あいたま市
文化財保護課
みどり推進課
℡ 048-829-1111(代)
(残された見沼)
とおいむかしから、見沼の一番深い所に神輿を乗せた舟を繰り出し、沼の主の竜神を祀るために「御船祭」というお祭りが行なわれていました。
ところが、見沼を干拓して田んぼにするということになると、永年つづいていた「御船祭」が出来なくなってしまいます。
田畑に水を与え、人々を見守ってくれる竜神を大切にするお祭りが出来なくなっては、人々が感謝の気持をあらわすこともできません。
そのお祭りを行なっていたのは、この氷川女體神社です。そこで神社は、幕府にそのことを告げたのです。
すると幕府は、神社の前にまるで手鏡のように見沼の水を残し、中央に土壇場という出島をつくりお祭りの場を残してくれたのです。
見沼の竜神は干拓と同時に天に昇り、今でもこの辺りを見守ってくれているといいますが、それだけではありません。この残された見沼に時折来ては泳いでいるのです。もしかすると、コイに姿をかえて泳いでいるのかも知れません。
※「御船祭」は干拓後「磐船祭」となり、その後、「祇園磐船竜神祭」として毎年5月4日に行なわれています。
● さいたま市の主な竜神伝説
1 左甚五郎の竜
釘付けの竜
開かずの竜
2 竜神の決意
竜神灯
3 見沼のイモリ
4 螢の御殿
5 竜神の森
6 人身御供
7 見沼の笛
8 井沢為永と竜
9 おしゃもじ様
10 水呑み竜
11 弁天様の使い
12 竜神村
13 美女と馬子
14 左甚五郎の竜
15 蓮を作らない
16 四本竹
17 御沼の手毬
18 御船祭
19 見沼のゴイ
2010年3月14日 浦和東ロータリークラブ40周年記念事業
このコンテンツについて
㈱マスターズホームが、さいたま市緑区にお住いの小中学生に保護者様承諾のもと、地元の歴史や文化を学ぶことを念頭に、写真の撮影や文字起しをして頂き作成されたコンテンツです。今後は川口市内(東浦和駅近辺)も含め、ご協力頂ける方を募集する予定です。(図書カードNEXTを進呈)